話者がほとんどおらず、文献も少なく、実用性もほぼないにもかかわらず、アイヌ語の独学環境は意外なほどに整っている。


 本屋で買えるまともな学習書には、白水社の「CDエクスプレス アイヌ語」と、「カムイユカラでアイヌ語を学ぶ」がある。
 英語や中国語のように大勢の学習者がいる言語では、良質な学習書が何十冊もある。それと比べると、学習書が2つしかないというのは、非常に貧弱な環境に感じられる。だが、それは錯覚だ。まず、2冊とも音声つきで、文法解説も丁寧だ。また、それなりに話者がいる、場合によっては一国の公用語となっている言語であっても、日本語で読める音声つきの学習書がないというものも少なくない。英語や中国語の学習環境が異様なほどに恵まれているだけなのだ。話者や学習者の少ない他の言語と比べてみれば、アイヌ語は充分健闘している。

 わざわざ本屋まで行かなくとも、アイヌ文化振興・研究推進機構のサイトでは、アイヌ語ラジオ講座のテキストを無料でダウンロードすることができる。また、ラジオ講座の音声はSTVラジオのサイトでダウンロードできる。


 「アイヌ語千歳方言辞典」(中川裕 草風館)、「萱野茂のアイヌ語辞典」(萱野茂 三省堂)、「アイヌ語沙流方言辞典」(田村すず子 草風館)と、利用価値の高い一般向けの辞書が複数あることも、アイヌ語の学習を容易にしている。

 だが、アイヌ語辞典の現状には、非常に大きな問題がある。それは、「アイヌ語→日本語」の辞書があるのに、「日本語→アイヌ語」のまともな辞書がないということだ。

 今でも、日本語からアイヌ語を引くことのできる資料はある。だが、一般的な学習者がアイヌ語の作文をするのに充分満足のいくという代物ではない。

 「アイヌ語方言辞典」(服部四郎:編 岩波書店)は名著だが、あくまで専門家向けの資料と呼ぶべき代物だ。学習辞書としては欠点も多い。例えば、「田舎」、「政府」、「仏」、「面(mask)」、「家畜」などの、該当するアイヌ語の存在しない項目が少なからず存在するので、無駄な空白がかなりのページを占拠している。研究者には空白も意味があろうが。

 「日本語・アイヌ語辞典」(國學院短期大学コミュニティカレッジセンター)は、ジョン=バチラーの「アイヌ・英・和辞典」を元にしており、表記や語釈などに問題がある。
 例えば、アイヌ語には有声子音と無声子音の区別は存在しないのだが、この本では、バチラーの辞書の有声子音と無声子音の対(kとg、pとbなど)の恣意的な使い分け[1] [2]が踏襲されている。
 また、「ape(火)」を「a(燃える)+ pe(もの)」と解釈しているが、これは間違いだ。「a」単独では「燃える」などという意味は持たない。「ape a」は「火が燃える」という意味になるが、この場合の「a」は「座る」という意味の動詞「a」の派生に過ぎない[3]

 「萱野茂のアイヌ語辞典」には、日本語引きの索引がついているが、本当にただの索引なので、説明などはないし、その上、本文中で使われている訳語で引かなければならないという欠点がある。例えば、「む」の欄には「村からやや離れた所にひとりで暮らしている」、「め」の欄には「めちゃくちゃ下手な削り方をする」という項目がある。どこの誰がそんな長ったらしい句を引くというのだ!

 結局、自分で使いやすい辞書を作るのがいちばん手っ取り早い。


 さて、ここで、アイヌ語を初めて学ぶ人にお薦めの教材を挙げたい。
 まずは「CDエクスプレス アイヌ語」。上で挙げた市販のまともな学習書の1冊だ。「カムイユカラ」が応用的な内容であるのに対し、「エクスプレス」は基礎的な内容の本だ。初学者が手に取るべきはこちらだ。
 辞書としては、「アイヌ語千歳方言辞典」をお薦めしたい。その理由は、「エクスプレス」が千歳方言を扱っているからだ。千歳と沙流の方言差は少ないが、初学者がわざわざ混乱することもない。
 なお、言うまでもないことだが、沙流方言を学んでいる人が買うべきなのは、「アイヌ語千歳方言辞典」ではない。「萱野茂のアイヌ語辞典」や「アイヌ語沙流方言辞典」だ。


(2015年1月1日追記)
 2014年3月10日、3月26日追記分を整理。


[1] 「アイヌ・英・和辞典」 ジョン・バチラー 岩波書店
[2] 「アイヌ語入門」 知里真志保 北海道出版企画センター
[3] 「旭川アイヌ語辞典」 川村兼一:監修 太田満:執筆・校閲 アイヌ語研究所