2016年1月14日の記事にも書いたように、現在の日本では、白人(特に西洋人)を茶化したりステレオタイプ的に描写したりすることは大っぴらに認められている。その一方で、中国人を茶化したりステレオタイプ的に描写したりすることは、いわゆる良識的な人の眉をひそめさせるおこないである。
 さらに、黒人にいたっては、軽々しく取り上げること自体がタブーとなっている。例えば、「トンデモ本? 違う、SFだ! RETURNS」(山本弘 洋泉社)では、ゲームに黒人キャラを登場させようとしたら「肌を黒く描くと差別になる」という横槍が入った例が紹介されている。また、2003年の教科書検定では、文部科学省の指摘を受けて、挿絵に描かれた黒人の容姿が美しく修正されるというできごとがあったし、最近でも、ツイッターで公開されたももいろクローバーZの黒塗り写真が「黒人差別」だと批判を受ける事件(以下ももクロ事件)があった。

 黒人や中国人を軽々しくネタにすることが人種差別であって許されないことならば、西洋人――西洋の白人を軽々しくネタにすることも人種差別であって許されないはずである。だが、実際はそうではない。
 ネタにされる側からの批判がないわけではない。例えば、2014年1月から放映が始まった全日空のCMは、出演者が金髪のかつらと高さを強調したつけ鼻をつけてステレオタイプ通りの西洋人を演じていたことから、日本在住の外国人から人種差別だという批判を受け、放送中止に至っている[1] [2]
 だが、この事件(以下全日空CM事件)が日本社会に及ぼした影響は小さい。実際、これによって西洋人の戯画化やステレオタイプ的描写がタブー視されるようになったかと言えば、別にそんなことはなかった。
 全日空CM事件の後も、日本の役者が古代ローマ人を演じる映画の第2弾が上映されたり、ギャグラノベの新キャラとして<片言>を使う金髪碧眼のモルドバ人が登場したり、金髪という白人の身体的特徴を思い切り前面に押し出したアニメの第2期が制作されたりと、メディアでの西洋人の扱いは事件以前と比べても大して変化していない。

 それでは、なぜ西洋人の戯画化は許され、黒人や中国人の戯画化は許されないのか。
 「ぽりちかる・これくとねす」の名の下、黒人や中国人の戯画化を非難する人はこう答えるだろう。黒人や中国人は社会的弱者だが、西洋人は社会的強者だからだと。
 だが、それは正しくない。日本では、西洋人は何の特権も持たないただの外国人であり、断じて強者などではないのだ。
 結局、西洋人の戯画化は許され、黒人や中国人の戯画化は許されないのは、ただのダブルスタンダードなのだ。では、なぜこのようなダブルスタンダードがまかり通るのか? それは、声の大きいいわゆる良識的な人々が、すさまじい西洋かぶれだからである。

 ももクロ事件について取り上げたJ-CASTニュースの記事には、次のように書かれている。

 黒人ユーザーらは「アフリカ人に対する差別の歴史を学んでほしい」「彼らは黒塗りが私たちにどのように映るか気づいているのか」と怒りをあらわにした。

ももクロ「黒塗りメーク」にNYタイムズ記者批判  「罪のないパフォーマンス」ではすまされない?

 では、アフリカ人に対する差別の歴史を学んでみよう。具体的にはジンバブエのケースについて学んでみよう。

 かつて、ジンバブエには深刻な人種差別が存在した。そして、今でも深刻な人種差別が存在する。だが、昔と今とで差別する側と差別される側は大きく変わっている。かつての南ローデシア(現ジンバブエ)では、白人支配の下で黒人が迫害されていたのに対し、現在のジンバブエでは、黒人支配の下で白人が迫害されているのだ[3]
 つまり、ジンバブエには黒人差別と白人差別の両方の歴史が存在するのだ。そのうち、前者だけを問題視しなければならない理由はない。

 一方、日本国内のツイッターユーザーの反応は異なり、「過剰反応ではないか」「彼らに人種差別の意図はなく、敬意や憧れを表している」といった意見が少なくなかった。

 だが、こうした視点は世界とはギャップがあるのかもしれない。現代アジア研究所特別研究員のオリバー・カープ氏は日本の披露宴の余興で見た「黒塗りメーク」について、2013年7月2日付のハフィントンポスト記事の中で次のように述べている。
 「私アメリカ人にとって、ブラックフェイス(黒塗り)はただ一種類、否定的な意味しか持っていません。それは、偏見、嘲り、そして人種差別です」「様々な芸術に対する選択肢の1つなのかもしれませんが、罪のないパフォーマンスとはみなされません」

ももクロ「黒塗りメーク」にNYタイムズ記者批判  「罪のないパフォーマンス」ではすまされない?

 「世界」だと? アメリカ人の発言だけを引用して「世界」だと? 直後に韓国での黒塗りの事例を挙げておいて「世界」だと? 言うまでもなく、韓国は「日本」ではなく「世界」の側だ。
 結局、日本における「黒人の戯画化」を非難する人にとって、「世界」というのはジンバブエでも韓国でもなく、アメリカのことなのだ。アメリカ人がアメリカ的な価値観から日本を批判するのは勝手だが、日本人がその尻馬に乗るのは、西洋かぶれ以外の何ものでもない。

 なお、ももクロ事件については、成蹊大学教授のひびのけい氏がツイッターで擁護の意見を述べている[4] [5]


 外国向けの表現ならば、輸出先の基準に合わせるのは当然だ。例えば、「ドラゴンボール」がアメリカに輸出された際、ミスター・ポポの分厚い唇は消されている。「黒い体と分厚い唇」という意匠が黒人のステレオタイプ的な描写を連想させるので、元のままでは人種差別に敏感なアメリカでは受け入れられなかったためだ[6]
 だが、外国向けでない表現ならば、外国の基準に合わせる必要はない。日本向けの表現は日本の基準に、韓国向けの表現は韓国の基準に則ればよいのであって、北朝鮮やブータンやサウジアラビアやジンバブエのローカルルールに則る必要はない。同様に、アメリカのローカルルールに従う必要もない。

 さて、上で「ダブルスタンダード」と書いたが、西洋かぶれである当人は、決して自分の行為をダブルスタンダードとは思っていないだろう。
 西洋人はいつでもどこでもマジョリティーだと信じているので、からかっても西洋蔑視や西洋人差別につながるとは考えないのだ。非西洋人は「マジョリティー」に迫害されているみじめな存在であり、いたわってやらなければならないと思っているのだ。黒人奴隷を使役した西洋人に過剰に自己同一化しているから、黒人に対して不必要な負い目を感じているのだ。
 ことさらにアメリカの風潮を気にするのも、「世界」といえばまずアメリカなのも、西洋かぶれの表れでしかない。

 実際の所、現在の日本では、西洋人は必ずしも憧れの対象であるとは言えない。むしろ、メディアでは三枚目の枠に放りこまれ、笑いを表現するために起用されている節すらある[7] [8]
 つまり、西洋崇拝は、現在の日本では決して主流とは言えないのだ。結局、この手の西洋かぶれどもは、ただのノイジーマイノリティーだったということになる。

 なお、ここで「アメリカかぶれ」ではなく「西洋かぶれ」と書いているのは、人種差別を批判する言説には、「西洋」を十把一からげにして「強者」として扱っている節が見受けられるからである。

 西洋を十把一からげにしている節というのは、例えば、モルドバ人やイタリア人を軽々しくネタにすることがまかり通っていることなどである。
 モルドバは欧州の最貧国と言われ[9]、その2014年の1人当たりの購買力平価GDP(米ドル換算)は5006.79ドルであった。これは、ナミビア(10898.38ドル)の約半分、ボツワナ(16453.64ドル)の約3分の1、赤道ギニア(36789.92ドル)の約7分の1の値である[10]
 また、アメリカでは、同じ白人の中でも、イタリア系住民はアングロサクソン系住民に見下されてきた[11]。かつて、SF作家で評論家のデーモン・ナイトは、「インド人、アフリカの黒人、マライ人、中国人などの宇宙英雄はどこにいる?――まあいい、そこまでは言わずとも――せめてイタリア人のヒーローはいないのか?」と嘆いたが[12]、ここからも、人種差別が激しかったころのアメリカでは、イタリア人は黒人や東洋人と同様に表舞台から排除されていたことがうかがえる。
 だが、モルドバ人を三枚目として描いても、貧しい人を笑いものにしていると叱られることはない。イタリア人を「とにかく明るいマザコン野郎」扱いした所で、イタリア蔑視だのイタリア人差別の歴史を共有すべきだのと糾弾され、表現を引っこめざるをえなくなることもない。もちろん、全日空CM事件の後でもである。これはすなわち、モルドバ人やイタリア人は、西洋人であるというただそれだけの理由で、からかっても構わない「社会的強者」枠に放りこまれているということである。

 黒人キャラの肌の色を強調したり、中国人キャラに「~アルヨ」と言わせたりすることがNGならば、西洋人キャラの髪の色を強調したり、「~デース」と言わせたりすることもNGのはずだ。逆もまたしかり。西洋人キャラの髪の色を強調したり、「~デース」と言わせたりすることがOKならば、黒人キャラの肌の色を強調したり、中国人キャラに「~アルヨ」と言わせてもOKだろう。
 どの国の人間も平等に尊重し、平等に批判し、そして平等に茶化す。これが公正というものだ。どちらもOKか、どちらもNGか。2つに1つだ。

 「特定の人種や民族のみが戯画化されない特権を持つ」というのは明らかな差別思想である。「ぽりちかる・これくとねす」を唱えながらそのような差別思想を抱くとは、自己撞着もはなはだしい。黒人や中国人の戯画化「だけ」を非難する西洋かぶれ連は、自分たちのダブルスタンダードに気づかなければならない。自分たちが異端であることを理解しなければならない。その上で、自らの態度を改めるか、特定の人種や民族だけに肩入れする「差別主義者」を名乗るかを選ばなければならない。


[1] 「金髪に高い鼻」は人種差別、ANA新CMに外国人から苦情
[2] ANA、新CMを修正へ 人種差別的との苦情受け
[3] Racism in Zimbabwe
[4] ももクロ/ラッツ&スターの「黒塗り」に関する議論~ひびのけい・ECD両氏を中心に
[5] 「黒塗り」の断罪。差別と抑圧。
[6] 【アメリカ】『ドラゴンボール』 ミスター・ポポは黒人差別だ!
[7] 役割語としての片言日本語と野放しの偏見
[8] 「読売新聞」 2015年11月24日
[9] モルドバ基礎データ
[10] 世界の一人当たりの購買力平価GDP(USドル)ランキング
[11] 「なぜ悪人を殺してはいけないのか」 小谷野敦 新曜社
[12] 「トンデモ本? 違う、SFだ! RETURNS」 山本弘 洋泉社 p.90