30 :名無しさん@4周年:04/03/18 16:47 ID:LDJIJt+h
まあ、アメリカ人のバーベキューへの思い入れは凄まじいものがあるからな。
海外赴任中に取引先のデブに、ディナー奢ったお礼に誘われて、嫌々行ってみたんだが、
まず肉が凄い。キロ単位で塊で買ってくる。手土産に持ってった肉をみて「それじゃ足りないよ、
貧乏人」という顔をする。エコノミックアニマルはいつまでも肉食には慣れないらしい、みたいな。
絶対、その肉4キロより、俺が買ってきた肉500gの方が高い。っつうか、それほぼ脂身じゃねえか。
で、デブが肉を切る。やたら切る。不良風のデブ娘とデブ息子もこのときばかりは親父を尊敬。
普段、目もあわせないらしいガキがダディクールとか言ってる。郷ひろみか? 畜生、氏ね。
鉄板も凄い、まず汚ねぇ。こげとかこびりついてる。 洗え。洗剤で洗え。つうか買い換えろ。
で、やたら焼く。焼いてデブ一家で食う。良い肉から食う。ゲストとかそんな概念一切ナシ。
ただただ、食う。デブが焼いて、デブがデブ家族に取り分ける。俺には回ってこない。畜生。
あらかた片付けた後、「どうした食ってないじゃないか?」などと、残った脂身を寄越す。畜生。
で、デブ一家、5キロくらい肉を食った後に、みんなでダイエットコークとカロリーカットのビールを飲む。
「今日は僕も飲んじゃう」とかデブ息子が言う。おまえ、酒どころか絶対薬やってるだろ?
デブ娘も「ああ、酔っちゃった、あなた素敵ね」とか言う。こっち見んな、殺すぞ。
デブ妻が「太っちゃったわね」とか言って、デブ夫が「カロリーゼロだから大丈夫さ」とか言う。
アメリカンジョークの意味がわかんねえ。畜生、何がおかしいんだ、氏ね。

まあ、おまえら、アメリカ人にバーベキュー誘われたら、要注意ってこった。

バーベキューをめぐる伯父・甥の仁義なき銃撃戦

 今では懐かしいこのコピペだが、元々は体験談として書かれたものである。
 あくまで取引先の一家という個別のケースの話なのだが、1行目と最終行で「アメリカ人」という言葉が用いられていることにより、あたかもアメリカの国民性について述べた文章であるような趣が出ている。コピペ化した時のタイトルが「アメリカ人のバーベキュー」であることからも、この文章が特定の一家についてではなく、「アメリカ人」について述べたものと受け取られていることが読み取れる。
 さて、このコピペは、「ぽりちかる・これくとねす」の観点からは大きな問題がある。
 初っ端から取引先の一家をデブと罵倒しているだけではない。アメリカ人を十把一からげに味覚音痴、不潔、大食い、無遠慮、薬物中毒であるかのように扱っている点だ。ネトウヨの荒らしと同様に受け取られてもよいくらい乱暴な代物なのだが、実際には、この文章を「アメリカ人蔑視」と批判する発言は見られない。せいぜい「デフォルメの過ぎた描写」[1]、「コピペの性格が悪すぎる」[2]程度の批判にとどまる。

 アメリカ人の悪口がはびこっているのは、巨大匿名掲示板に限ったことではない。商業出版物も同様だ。例えば、「空想科学読本3」(柳田理科雄 メディアファクトリー)には、以下のような記述が存在する。

人々の心がまっすぐな、あのアメリカである。 (p.198)

化学工場の火事が水で消えるとは、アメリカって、火事まで心がまっすぐだ。 (p.199)

心がまっすぐなアメリカ人は、ほとんど同じ作品を連発で鑑賞しても飽きないのだろうか? あるいはそのダブルメロンぶりに気づかないのか? (p.229)

 「心がまっすぐ」と一見きれいな言葉を使っているが、全くほめていない。「単純馬鹿」をオブラートに包んで水をかけただけの表現だ。「アメリカ人は単純馬鹿」と偏見に満ちたことを言っているのだ。

 悪く言われるのはアメリカ人だけではない。
 例えば、アニメ「ハロー!! きんいろモザイク」(原悠衣・芳文社/ハロー!!きんいろモザイク製作委員会)第3話には、次のようなやり取りが存在する。

綾:本当のことを言うのって、難しいわ。
カレン:それって、アヤヤはいつも嘘ばっかり言ってるってことデス?
アリス:実はアヤってジョークの達人?
忍:もしかして、イギリス人だったんですか?

 「嘘つき=イギリス人」とは、すさまじい偏見だ。「イギリスではジョークが盛ん」というテーマを受けての会話であること、大宮忍の言葉であること、そもそもギャグアニメの台詞であることを踏まえても、ひどい侮辱であることに変わりはない。しかも、この会話は原作には登場しない。つまり、公共の電波で流すために、わざわざこの台詞を作ったのだ。

 このように、メディアには外国人の悪口があふれている。しかしながら、すべての人種、民族、国民の悪口が平等に許されるかといえば、そうではない。
 例えば、中国人を馬鹿にしたり、軽々しく戯画化したりすることは、良識的な人々からの非難を招くおこないである。
 中国人戯画化批判の例としては、次のようなものが挙げられる。

たとえば、<アルヨことば>は、戦前の、中国の人々に対する偏見に満ちたまなざしとともに用いられていたことを知っておく必要がある。現在の漫画で用いられる例を見ると、悪意も屈託もないようには見えるが、しかしそもそも不完全な日本語=ピジンしか話せないかのように描写されたとき、描写された当人はどんな気持ちがするかということを考えるべきである(略)。

「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」 金水敏 岩波書店 p.203

 要するに、中国人の戯画化は(中国側からの抗議の有無にかかわらず)描写された相手の気持ちを(勝手に)想像してやめるべきだと言っているのである。
 一方、西洋人キャラクターが<片言>を話す三枚目として描かれることはチャメシ・インシデントであるが[3]、このことを上と同じ理由で批判する識者は見当たらない(「外国語学習者を馬鹿にしている」という批判ならある)。

 また、高島俊男氏は、エッセイ「『支那』はわるいことばだろうか」[4]にて、「『支那』は差別用語とされているので、『支那』という呼称を使いたい箇所でも『中国』と書かざるを得ない」と述べている。
 一方、侮蔑的なニュアンスも含む「ヤンキー」という語の使用は、別にタブーとされてはいない。さらに、「ヤンキー」という語は、現在では「不良少年」という意味で使われることが多いが、不良少年を「アメリカ人」と呼ぶことをアメリカ蔑視とかアメリカ人差別と非難した例は見たことがない。

 西洋人の戯画化について、戯画化される側からの抗議がないというわけではない。例えば、2014年1月から放映が始まった全日空のCMは、出演者が金髪のかつらと高さを強調したつけ鼻をつけてステレオタイプ通りの西洋人を演じていたことから、日本在住の外国人から人種差別だという批判を受け、放送中止に至っている[5] [6]
 だが、この事件が日本社会に及ぼした影響は小さい。実際、この事件によって西洋人の戯画化やステレオタイプ的描写がタブー視されるようになったかと言えば、別にそんなことはなかった。
 この事件以降も、日本の役者が古代ローマ人を演じる映画の第2弾が上映されたり、ギャグラノベの新キャラとして<片言>を使う金髪碧眼のモルドバ人が登場したり、金髪という白人の身体的特徴を思い切り前面に押し出したアニメの第2期が放送されたりと、メディアでの西洋人の扱いは事件以前と比べて何ら変化した様子はない。
 それどころか、件の全日空のCMでさえ、堂々と擁護することができる。実際、鴻上尚史氏は、CMに対する抗議を「文脈を理解していない。」と批判しているが[7]、2014年2月3日に描かれたその文章は、およそ2年が経過した今でも引っこめられる様子はない。

 結局、現在の日本では、中国などに対しては正しい配慮が求められている一方で、西洋諸国に対しての配慮は不要なのだ。

 それはなぜか。

 それは、「反差別」や「ぽりちかる・これくとねす」を掲げる良識的な人々にとって、中国人などは弱者であり、西洋人は強者ということになっているからだ。弱者である中国人には配慮が必要だが、強者である西洋人には配慮は必要ないということだ。
 もちろんこれは正しいことではない。実態に反している上、人種や民族や出身国によって対応を変えるのは、差別に他ならないからである。つまり、反差別を掲げていながら、実際は差別主義に凝り固まっているのだ。

 先述の「『支那』はわるいことばだろうか」には、次のような記述がある。

 今日本で、アメリカ人の悪口を言ってもイギリス人を批判しても、アメリカ蔑視だイギリス人差別だと言う者はない。それが中国となると、それ中国蔑視だ中国人差別だと金切り声を立てる人があらわれる。
 なぜか。当人たちもはっきり意識してないのだろうが、彼らの心中には、日本は中国より上だ、日本人は中国人より上だ、中国は弱い国で中国人は弱い人たちだ、「いたわってやらなくては。自分たちが守ってやらなくては」という思いあがりがある。その思いあがりは、戦前支那人を軽侮した日本人と紙一重、いやほとんど同じ穴のムジナだ。なまじ良心づらしているだけ気色がわるい。

「本が好き、悪口言うのはもっと好き」 p.166-167

 悪口や戯画化が「差別」になるのは、悪口を言ったり相手を戯画化したりする側の方が立場が上だからである。つまり、日本人が中国人の悪口を言うことが「中国人差別」になると考えている人は、「日本人は中国人より上」と思っていることになるのだ。

 だからと言って、西洋人の侮辱や戯画化が許されるのは西洋人に対する敬意の表れなのかといえば、そうでもない。
 中国人の扱いに関しては配慮を求める一方、西洋人の扱いに関して配慮を求めない人は、おそらく、「西洋は日本より上」と考えているのだろう。だが、その考えは西洋に対する敬意として現れるのではない。「西洋人は強者なので、無碍に扱ってもよい」という免罪符になるのだ。結局、擁護されるに値するのは可哀想な弱者の権利「だけ」で、強者にカテゴライズされる人間は軽んじてもよいというのが、良識的な人々の本音なのである。

 何のことはない。「ぽりちかる・これくとねす」と称するものの正体は、単なる判官贔屓だったのだ。しかも、このテーマに限れば実態は判官贔屓ですらない。なぜなら、そもそも日本では西洋人は何の特権もないただの外国人であり、断じて強者などではないからだ。判官贔屓どころか、ただの贔屓である。そこに正義はない。

 中国人キャラに「~アルヨ」と言わせるのが不適切なら、西洋人キャラに「~デース」と言わせるのも不適切だろう。逆に、西洋人キャラに「~デース」と言わせるのが問題ないのならば、中国人キャラに「~アルヨ」と言わせるのも問題ないはずだ。また、「支那」という言葉がNGなら、同様に「ヤンキー」という言葉もNGでなければならない。逆に、「ヤンキー」がOKなら、「支那」もOKに決まっている。どの国の人間であれ、平等に敬意を払い、平等に批判し、そして平等に茶化す。これが公正というものだ。

 勘違いした「ぽりちかる・これくとねす」には、おしっこを引っかけなければならない。


[1] バーベキューとは
[2] バーベキューについて語るスレ
[3] 役割語としての片言日本語と野放しの偏見
[4] 「本が好き、悪口言うのはもっと好き」 高島俊男 文春文庫
[5] 「金髪に高い鼻」は人種差別、ANA新CMに外国人から苦情
[6] ANA、新CMを修正へ 人種差別的との苦情受け
[7] 「金髪につけ鼻」という扮装は人種差別なのか?【鴻上尚史】