「江戸しぐさの正体」(原田実 星海社新書 2014年)の帯には、「日本の教育が危ない!」と書かれている。だが、それは最近始まったことではない。日本の教育は、昔から危なかったのだ。
 この本には、次のような記述がある。

 ここ一〇年ほどの間に教育現場に蔓延した奇妙な話というのは、「江戸しぐさ」などのTOSS推奨物件ばかりではないのである。

 たとえば、文部科学省と国語審議会では、社会・地理などの教科書・教材に用いる中国語の地名から漢字表記を廃し、カタカナ表記に統一する方針に向かっている。
 しかし、そのカタカナ表記は日本語の訓読み[1]だけでなく、中国の普通語はもちろん、どの方言の発音とも異なる独自のものである。
 つまり、文部科学省と国語審議会は、年長の日本人はもちろん、中国人にも通じない中国地名を子供たちに教え込もうとしているわけである。

 また、小学校の算数では掛け算については、問題文通りの順番に数字を並べなければ答えがあっていてもバツをつけるという指導が広まっている。
 具体的に説明すると、「りんごを3つのせたさらが2まい」ある場合のリンゴの合計について、3×2[2]と書いたなら、答えを6としても間違いあつかいされるというわけである。
 そのような考え方になれてしまうと、後で乗法の交換法則を学んだ時にかえって混乱すると思うのだが、現在の小学校教師はカップリングを考える腐女子の如くに掛け算の前後にこだわることを余儀なくされている。

(p.196-197)

 だが、中国地名の片仮名表記やかけ算の順序にこだわる指導は、ここ10年ほどのものなどではない。学校教育の場では、半世紀以上前から中国地名を片仮名で表記した教材を用い、かけ算の順序にこだわっていたのだ。
 中国地名の片仮名表記のルーツは、1949年に国語審議会が発行した「中国地名・人名の書き方の表」で、「中国の地名・人名は仮名表記を原則とする。」と定められたことにある[3]。また、かけ算の順序にしても、1951年に文部省によって出された学習指導要領の試案の改訂版で、すでにかけ算の順序について指導すべきことが明記されている[4]。つまり、戦後生まれのほとんどの人は、中学校で片仮名表記の中国地名を習い、小学校でかけ算の順序を習っているのだ。1961年生まれの原田氏も、年長の日本人に通じない中国地名を教えこまれ、腐女子のようにかけ算の前後にこだわった指導をうけているはずなのである。

 九〇年代までは、教科書・教材・指導要領について、文部省・教育委員会が示す方針を、日教組(日本教職員組合)や市民団体が批判することで教育現場でのバランスをとるのが常だった。
 しかし、日教組も勢力の衰退が著しい。
 (略)
 もはや日教組に、教育現場全般で抑止機能を果たすことはできそうにない。

(p. 198)

 要するに、「昔はよかった」ということだ。だが、前述の通り、「奇妙な話」は日教組が強かった時代から教育現場に蔓延していた。つまり、抑止機能など最初からなかったのだ。「昔はよかった」のではなく、「昔から悪かった」のである。

 現代を否定するために過去を美化したところで、その思い込みは実際の史料に裏切られるのが落ちである。

(p. 203)

 どの口が言うか。


 さて、調べてみると、中国地名の片仮名表記やかけ算の順序の指導を最近のものと誤解している人が少なからず存在することがわかる[4] [5]。では、なぜそのような誤解が生まれるのか。

 最も妥当な理由は、自分が子供の頃受けた教育を忘れてしまったからというものだろう。

 初めてかけ算を習った時には式の順序を教えられていたが、その後交換法則を習ったことで知識が上書きされてしまい、最初に習ったかけ算の順序に関する知識は忘却の彼方へ消え去ってしまった。これは充分考えられるケースだ。

 中国地名の片仮名表記にしても同様だ。
 中学でも高校でも、地理の教材では中国地名は片仮名表記が基本である[6]。しかし、歴史となると話は違う。中学の歴史教材には中国の地名を片仮名で表記したものもあるが(下図参照)、高校の世界史の教材は漢字表記が基本だ[6]。また、マスメディアに登場する中国地名も漢字表記の方が圧倒的に多い。高校世界史で漢字表記を習い、本や新聞や海外旅行パンフレットに記された漢字表記の地名を見ているうちに、中学校の社会科、あるいは高校の地理で習ったことを忘れてしまうというのは、決して想像に難いことではない。

中国地名
「七訂増補 資料カラー歴史」 浜島書店 1993年 p.143

 だが、原田氏が上のように述べているのは、決して記憶違いによるものなどではない。なぜなら、「江戸しぐさの正体」巻末の参考文献には、明木茂夫氏や高橋誠氏の著作が含まれているからだ。これはすなわち、原田氏は、中国地名の片仮名表記やかけ算の順序にこだわる指導が昔から存在していたことを知っていたということである。知った上で間違ったことを書いているのである。
 これはゆゆしき問題である。
 なぜなら、「江戸しぐさの正体」は、歴史捏造を批判する本だからである。そんな本で、著者自身がいけしゃあしゃあと歴史を捏造しているのだ。読者を馬鹿にしているとしか思えない。


[1] 引用者註:音読みの間違いだろう。
[2] 引用者註:2×3の間違いだろう。
[3] 「社会科地図帳中国地名カタカナ現地音表記とその基準について――漢字制限論の残したもの」 明木茂夫
[4] 「かけ算には順序があるのか」 高橋誠 岩波書店
[5] 教育現場の中国語表記が今、大変なことに 明木茂夫「俗俗・地図帳の怪」
[6] 平成27年度本試験の問題|大学入試センター