言語学・日本語・方言板@JBBS掲示板には、次のような書きこみがある。

2 :名無しさん:2011/02/27(日) 02:32:25
英語などの吹き変えは何であんなに役割語を強調してるんだろう。
なぜかタメ口率がやたら高いし、男は「もちろん~さ!毎日~してるよ!君は~してるのかい?」みたいな口調、
女は「もちろん~よ。~してるわ!あなたは~してるのかしら?」みたいな口調。こんな口調の日本人はいない。
吹き変えでなくてもドラマなど台本があるものでは男性語、女性語が強調されてるのもあるけど、吹き変えに特に顕著。
吹き変え独特の口調というのが明らかに存在する感じがする。


3 :名無しさん:2011/02/27(日) 08:00:18
ええがな。
日本は吹き替えにおいて外人っぽさを表すのをあれで表現したんだろ。
アメリカならそれぞれスペイン語訛り、日本訛り みたいに各地域の人が話す訛った英語で役割を出すけど

役割語 (老人語・女性語・武士語・擬似方言など) について語る

 また、「翻訳がつくる日本語」(中村桃子 白澤社)では、「やあ、○○。~さ」や「~かい、~だい」に代表される話し方を「翻訳版・気さくな男ことば」と呼び、専ら外国人男性の発言を日本語に翻訳する場合に使われる表現と述べている。

 かたや(多分)好事家、かたや言語学者、だが、「やあ、○○。~さ」のような話し方を「翻訳独特の表現」と見なす点では共通している。

 では、本当に「やあ、○○。~さ」のような話し方は「翻訳独特」なのだろうか。答えは否である。

 確かに、現実世界で「やあ、○○。~さ」などと話す人は少ない。間投助詞としての「さ」はしばしば耳にするが(例:あのさ、それでさ etc.)、終助詞としての「さ」は、少なくとも共通語ではあまり聞かない。「やあ」という挨拶も、「~かい、~だい」という文末も、ふざけた発話くらいでしか使われない。
 だが、フィクションの台詞に目を移すと、日本人キャラクターの台詞であっても、「やあ、○○。~さ」に類する言葉づかいが当たり前に登場するのだ。
 以下、フィクションの台詞での使用例を挙げてみる(下線は引用者によるもの)。なお、出典は下部を参照。

中学生、上条恭介の台詞

(1) やあさやか (A: p.122)

(2) …どうかしたのかい? さやか (A: p.124)


高校生、諸星真の台詞

(3) やあ 白絹くん! (B: p.81)

(4) 僕もいつかこれに負けないようなスクープをゲットしてやる! (B: p.143)


大学生、堅葉見平次の台詞

(5) やあ遠野 (C: p.84)

(6) なあにハプニングも旅の思い出 (C: p.113)


小学生、剛田武の台詞

(7) ほしい物は手に入れるのがおれのやり方 (D: p.8)

(8) 泣くほどうれしいかい (D: p.11)


高校生、福部里志の台詞

(9) 省エネでも厭世でもいい。どっちにしても同じことじゃないか。道具主義って知ってるかい (E: p.8)

(10) やあホータロー、奇遇だね (E: p.50)


警察官僚、浅見陽一郎の台詞

(11) それとも、そのことと事件と、何か関係があるというのかい? (F: p.91)

(12) ふーん、誰を紹介しろっていうんだい? (F: p.93)

 主人公の台詞で用いられることもある。

刑事、神戸大助の台詞

(13) それとも、まだ親父を恨んでるのかい (G: p.25)

(14) 好敵手を見つけるため (G: p.41)


高校生、新井沢トオルの台詞

(15) もちろん、リスクを最小限に抑えるため。 (H: p.137)

(16) そういえばアメリカ人は魚が苦手だって話だけど、本当のところはどうなんだい? (H: p.134)

 以上の例はすべて戦後の作品のものだが、このような言い回しが見られるのは決して近年の作品に限ったことではない。統計ではなく印象にすぎないが、むしろ昔の作品の方が目立つ。例えば、夏目漱石の小説の台詞は、「~だい。」や「~さ。」のオンパレードである。なお、終助詞「さ」の使用頻度は新しい作品では実際減少しているそうだから[1]、単なる印象といっても、そうそう的外れなものではあるまい。

高等遊民、長井代助の台詞

(17) それから、以後どうだい (I: p.17)

(18) つまり食うための職業は、誠実にゃできにくいという意味 (I: p.93)

 以上の(1)から(18)は、すべて、日本語で書かれた作品に登場する日本人キャラクターの台詞である。また、いずれも日常的な場面での発言である。登場人物がわざと吹き替えめかした喋り方をしているわけでもない。
 すなわち、「やあ、○○。~さ」に類する表現は、必ずしも外国人男性の発言を翻訳する際に限って使われるものとは限らないのだ。ならば、「翻訳版・気さくな男ことば」という名称も不適当なものとなる。単に<気さくな男ことば>とでも呼ぶのが妥当だろう。


 さて、典型的な役割語になるには、日常語からの逸脱が必要という説があるが[2]、現実世界ではあまり用いられていない<気さくな男ことば>は、その条件に合致するものと言えよう。

 ただし、典型的な役割語といっても、<気さくな男ことば>の役割語度[3]は、その他の典型的な役割語――<老人語>や<武士言葉>など――と比べると、かなり低いものである。
 そう考える理由は2つある。1つは<気さくな男ことば>が主人公の台詞や評価の定まった文学作品の台詞にも用いられていること、もう1つは、<気さくな男ことば>の使い手の人物像が一定でないことだ。

 典型的な役割語は、B級作品の脇役が発する記号的な台詞において多用される。
 内面や個性が丁寧に描写される主要登場人物に対し、脇役は読者・視聴者にとって重要度が低いため、型通りのわかりやすい人物描写で済まされることが多い。だが、型通りでわかりやすいということは、裏を返せば深みがないということでもある。それゆえ、ステレオタイプ的な描写が多用される作品はB級のそしりを免れないのである[4] [5]
 しかしながら、<気さくな男ことば>の使い手には、「それから」の長井代助のような人物もいる。「それから」はB級作品ではないし、代助は脇役ではない。

 また、使い手の人物像が一定しない点についても考えてみたい。
 役割語の定義は「特定の人物像を思い浮かべることのできる言葉づかい」[4]である。だが、<気さくな男ことば>の使い手として描かれる人物の年齢や職業、性格などはさまざまだ。<気さくな男ことば>は他の典型的な役割語と異なり、強烈な個性を主張しないものなのである。

 以上の2点から考えると、<気さくな男ことば>は主人公の言葉である<標準語>[6]の範囲に含まれるもの、すなわち、役割語度の低いものであるという結論に達する。

 実際にはほとんど使われていないのに<標準語>とは、奇妙な話である。
 おそらく、「それから」が書かれた明治時代においては、<気さくな男ことば>は現実世界で普通に使われていた言葉づかいであったのだろう。
 だからこそ、明治以降の物語の主人公たちは当たり前に<気さくな男ことば>を喋り、また、翻訳の際には当たり前に<気さくな男ことば>が用いられてきた。時は流れ、現実世界では過去のものとなった<気さくな男ことば>だが、一旦確立した<気さくな男ことば>はそうそう容易には消えず、現在に至るまで創作や翻訳の中で生き残っている……といった所だろう。
 別に、何の根拠もなくこう考えるのではない。
 長崎靖子氏によれば、「さ」という終助詞は、江戸時代には丁寧な断定表現として男女ともに使われていたが、明治以降は<男言葉>として使われるようになり、また、丁寧表現として用いられることも減少したという[1]。長崎氏が資料として用いているのは小説の台詞なので、大なり小なり役割語としての誇張を受けているだろうが、それとて何のきっかけもなしに変化するとは考えにくい。現実世界の男がぞんざいな発言の中で「さ」を使うようになったため、小説の台詞もその影響を受けて変化したと考えるのが自然だろう。


 <気さくな男ことば>は決して翻訳特有の言葉づかいではない。
 したらばの2が言う通り、翻訳では型にはまったタメ口が濫用され、また、必要以上に性差が強調される嫌いがあることは確かだ。だが、そこで用いられる「不自然な」言葉づかいは、日本語オリジナルの台詞でも昔から使われているものなのだ。
 したがって、<気さくな男ことば>を翻訳特有のものと決めつけた言説は正しくないということになる。

 例えば、「翻訳がつくる日本語」には、以下のような記述がある。

 その結果、<気軽で親しい男らしさ>を表現する言語資源は、日本人男性用と非日本人男性用の二種類に分岐した。日本人男性用には「す」の「新男ことば」、非日本人男性用には、「やあ、○○。さ、かい、だい」に特徴付けられる言葉づかいである。後者は、話し手が<日本人でない>ことを示す言語資源である。

(「翻訳がつくる日本語」 p.106)

 この証拠として、中村氏は、現実の日本人が「やあ、○○。~さ」という言葉づかいをすることがなく、その一方で、翻訳では「~っす」という言葉づかいが用いられることがほとんどないことを挙げている。
 しかし、上で挙げたように、<気さくな男ことば>は、現実には使われていなくても、フィクションでは日本人キャラの台詞として使われている。翻訳も一種の創作と言えるから[7]、すなわち、「話し手が<日本人でない>ことを示す言語資源」というよりも、むしろ「創作であることを示す言語資源」と解釈すべきなのだ。

 (略)ある地域に住んでいる人をその国の「国民」にするには、その国の国民でない人を「他者」として特定するのが効果的なのである。
 「翻訳版・気さくな男ことば」の例は、日本では、現代でも、日本人男性と非日本人男性の境界が強調される場合があることを示している。<日本人の男らしさ>を明確にしておくためには、それと対立する<非日本人の男らしさ>を強調するという手法がとられるのだ。

(「翻訳がつくる日本語」 p.109)

 つまり、日本人は日本人が日本人であることを明確化するために日本人を日本人ではない他者として区別しているということになるのだ。なんだそりゃ。

 そもそも、翻訳されるのは外国人の言葉とは限らない。例えば、日本人の英語での発言を日本語に訳すケースなどもある。
 実際、中村氏は、「翻訳版・気さくな男ことば」の一例として、「入門ビジネス英語 ベストプラクティス1」(NHK出版)の会話例の日本語訳を挙げているが、そこでは、日本人キャラであるヒロの"Hi, Jake."という台詞が「やあジェイク」と訳されている。「<気さくな男ことば>は話者が日本人でないことを示すものである。」という説は、本人の挙げた例によって否定されてしまうのだ。

 私は言語学者ではない。だが、プロの言語学者の手による「翻訳がつくる日本語」には、素人である私がちょっと調べただけでも容易に気づけてしまう誤りがあるのだ。


 さて、弘法も筆の誤りのことわざ通り、プロが素人にもわかるレベルの間違いをすることもあるが、当然ながら素人が頓珍漢なことを言う方がずっと多い。例えば、上に挙げたしたらばの3の発言も、実際的外れなものである。

日本は吹き替えにおいて外人っぽさを表すのをあれで表現したんだろ。
アメリカならそれぞれスペイン語訛り、日本訛り みたいに各地域の人が話す訛った英語で役割を出すけど

 比べる対象が正しくない。日本語に訳された台詞と対比するならば、英語に訳された外国作品の台詞、外国訛りの英語台詞と対比するならば、外国訛りの日本語台詞でなければならない。


用例出典
A:「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語3」 原作:Magica Quartet 作画:ハノカゲ 芳文社 2014年
B:「UG★アルティメットガール」 原作:m.o.e.・スタジオマトリックス 著者:濱元隆輔 メディアワークス 2005年
C:「うちの姉様2」 野広実由 竹書房 2010年
D:「藤子不二雄ランド ドラえもん4」 藤子不二雄 中央公論社 1984年
E:「氷菓」 米澤穂信 角川文庫 2001年
F:「不等辺三角形」 内田康夫 講談社文庫 2010年初出
G:「富豪刑事」 筒井康隆 新潮文庫 1978年初出
H:「うちのメイドは不定形2」 森瀬繚・静川龍宗 スマッシュ文庫 2013年
I:「それから」 夏目漱石 角川文庫 1909年初出

[1] 現代語の終助詞「さ」の機能に関する考察 (CiNii) 長崎靖子 
[2] ツンデレ語で一休み
[3] 「ある話体が、特徴的な性質の話し手を想定させる度合い」(p.67) [4]
[4] 「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」 金水敏 岩波書店
[5] 「日本語必笑講座」 清水義範 講談社
[6] 書き言葉から私的な話し言葉までを含む幅広い概念[4]
[7] たとえ実在の人物の発言であっても、訳文は訳者が創作したものである。