2008年、アイヌ民族を先住民族と認める決議案が可決された。

 その後開催された先住民族サミットで、日本政府に対して次のような提言がなされた。

 先住民族サミット「アイヌモシリ」2008から日本政府への提言

 その提言の中に、アイヌの言語権を回復し、アイヌ語を公用語化すべしというものがある。アイヌ語を公用語にした上で、義務教育でも学べるようにすべしという主張だ。公用語にという割には、アイヌ語「で」ではなくアイヌ語「を」学べるようにしろというのは腰砕けだが、現段階でアイヌ語を日常的に用いる社会が存在しない以上、アイヌ語で授業を行う学校などを作っても意味がない。

 さて、アイヌ語を日本あるいは北海道の公用語とする場合に必要となることについて、真面目に考えてみよう。

 まず求められるのは、標準語の制定だ。

 アイヌ語の方言差は日本語より小さい[1]。だが、だから他の方言で話されても容易に理解できるというのは、あくまで母語話者、あるいは相当習熟した人の場合だ。第二言語として学んだ人には、わずかな方言差であってもスムーズな理解の妨げになる。
 現在、アイヌ語を母語とする人はほとんどいない。アレクサンダー=ヴォービンがユネスコに提出したデータでは、アイヌ語の話者は15人いるとされているが、これは相当古い数字(Wikipediaによると、1991年の調査結果)である。現在生きている母語話者はそれよりはるかに少ない。また、前述の通り、アイヌ語を日常的に用いる社会は存在しない。そのため、今後アイヌ語の母語話者が増えることもまず期待できない。
 つまり、現在、そして将来のアイヌ語話者は、ほとんどすべてが第二言語としてアイヌ語を学んだ人ということなのだ[2]
 アイヌ語を公用語とするとなると、当然別の地域の出身者同士がアイヌ語で話をすることだってありうる。この時、両者がそれぞれ別々の方言を使っていては、言っていることが充分伝わらないことも考えられる。
 また、アイヌ語を公用語にするということは、アイヌ語で公文書を作るということでもある。その公文書はどのような言葉で書くのか、きちんとした基準を作っておかなければならない。

 現在、北海道アイヌ協会が主催する道内14箇所のアイヌ語教室では、それぞれの場所の方言が教えられている。アイヌ協会(当時はウタリ協会)が発行していたアイヌ語教科書「アコロ イタク」には、さまざまな方言による例文が載っている。STVラジオのアイヌ語講座では、年度ごとに異なる方言が教えられている。道外のアイヌ語教室、あるいは出版物で使われている方言もさまざまだ。
 以下、例を挙げる。

 「CDエクスプレス アイヌ語」 中川裕・中本ムツ子 白水社 …… 千歳方言
 「アイヌ語千歳方言辞典」 中川裕 草風館 …… 千歳方言
 「萱野茂のアイヌ語辞典」 萱野茂 三省堂 …… 沙流方言
 「アイヌ語沙流方言辞典」 田村すず子 草風館 …… 沙流方言
 「アイヌ神謡集」 知里幸恵 岩波文庫 …… 幌別方言
 ディラ国際語学アカデミー …… 静内方言

 ここで、アイヌ語の方言差の具体例を挙げてみよう。

 「私は行く」は、沙流・千歳・鵡川などではk=arpaと言う。一方、それ以外の多くの方言ではku=omanと言う。
 「(兄から見て)妹」を、沙流ではmatapa、千歳ではmacirpe、それ以外の多くの方言ではturesと言う。
 「どこ」を、沙流・千歳などではhunak、鵡川ではhinak、それ以外の多くの方言ではneyと言う。[3]

 以上の具体例を見るに、沙流・千歳などの方言は他の地域の言葉とは違う点が多いことがわかる。となれば、沙流・千歳方言は全国あるいは全道で使われる標準アイヌ語には不適当……ということになりそうだが、現実はそう簡単ではない。最も多く辞書や解説書が出されている方言は、実は沙流方言なのだ[1]。前述の「アコロ イタク」にしても、文法解説は沙流・千歳方言が中心だし、そもそものタイトルが沙流・千歳方言の形(他方言では「アンコロ イタク」。ただし、静内、十勝には「ア~」と「アン~」の両方の言い方がある。)だ。が、それだけで沙流・千歳方言を標準語としてしまっても、それ以外の方言を学んだ人は納得しまい。
 ただ、個人的には沙流・千歳方言が標準語になってほしい。私は「CDエクスプレス」でアイヌ語を学んだので、千歳方言に馴染みがあるからだ。


 また、新語をどのように取り入れるかという課題もある。こちらは標準語の問題ほど難しいものではない。
 新語の導入には、他言語(主に日本語)からの借用、アイヌ語の形態素を利用した造語などの方法があるが、現状、前者がすでに主流の方法として確立していると思われるからだ。
 「アイヌ語をフィールドワークする」(中川裕 大修館書店)に掲載されている会話、「アイヌ語千歳方言辞典」(中川裕 草風館)の例文などを見てみれば、母語話者がアイヌ語で話す場合、足りない語は日本語をそのまま取り入れることが多いことがわかる。アイヌ語話者はほぼすべて日本語話者でもあるのだから、それがいちばん手っ取り早く、かつわかりやすい方法だろう。
 一方、安易に日本語を取り入れず、アイヌ語で造語しようとする人もいる。
 例えば、旭川親と子のアイヌ語講座の太田満氏が講師を務めた2008年度のアイヌ語ラジオ講座では、「テレビ」の訳語としてinkarsiksoという語が用いられている。元々はユーカラに登場するマジックアイテムの名であり、アイヌ文化伝承者の砂沢クラがテレビの訳語として採用したのだ[4]
 だが、同じく旭川親と子のアイヌ語講座の八谷麻衣氏が講師を務めた2011年度の講座では、「テレビ」は日本語の「テレビ」がそのまま用いられている。ユーカラ由来の訳語はあまり受け入れられなかったのだろうか[4]
 ただ、「写真」をnoka(形)やそれに近い語で表現することは、すでにかなり定着しているようだ。2008年度のアイヌ語ラジオ講座のテキストではsasinnoka(写真+"noka")という語が、2011年度のテキストではnokauk(写真を撮る)という動詞が使われている[4]。樺太方言でもinoka(写真)、inoka uh(写真を撮る)などと言う[5]


 さて、そもそもアイヌ語を日本あるいは北海道の公用語にする意味は何だろうか。

 まず考えつくのは、先住民族サミットでの提言にあるように、公立学校でアイヌ語を教えられるようになること、それ自体に意味があるというものだ。
 何度も言っている通り、アイヌ語は現在日常的に用いられていない。公用語にした所で、公共サービスなどでのアイヌ語の需要はほぼ0だろう。だが、アイヌ語はただ学ばれ、保存されるだけの言語というわけではない。典礼言語、すなわちアイヌの伝統儀礼に用いられる言語でもあるのだ。
 いくら先住民族の伝統文化といえども、政教分離という建前上、現代日本の公立学校で礼拝の作法を教えることはできない。だが、公用語というお墨つきがあれば、典礼言語を公立学校で教えることができるのだ。儀式ではアイヌ語での祈りの文句が欠かせない。少数の伝承者に頼るのではなく、公教育で大規模にアイヌ語を教えることができれば、伝統的な儀式、さらにはアイヌ文化全般の継承の大きな助けとなることだろう。
 ただし、公立学校でアイヌ語を教える場合でも、上に挙げた政教分離の建前上、祈りの文句そのものを教えることはできない。典礼言語である古文や漢文は公立学校で教えられているが、教材としては文学などが用いられ、祝詞やお経が教えられないのと同じだ。
 アイヌ語を典礼言語と見なした場合、先に述べた、どこの方言を標準語にするかという件は大きな問題ではなくなる。公用語にする以上、曲がりなりにも標準語を制定する必要があろうが、必ずしもそれを全学習者が習得する必要はない。礼拝の作法は地域によって異なる[3]。言語だって、今まで通りその地域の方言を用い続ければよい。地域の独自性を保つためには、むしろその方がよい。


 また、アイヌ語の公用語化の意義については、以下のような興味深い意見もある。

 公用語に関しては,意見が分かれるところだとは思うが,そもそも話者数が少ない言語が象徴的に公用語とされる事は珍しくない。それはわれわれが少数者を尊重するという姿勢の象徴なのだ。話者数が少ない先住民の言語を公用語に,というのも,特段非現実的な要求とは思われない(南アフリカの例を見よ)。

小林よしのりが今更ながらおバカすぎる件(1)

 つまりは建前だ。

 mukke氏が例として挙げている南アフリカは、駐日大使館のウェブサイトを英語版しか作っていない。大使館のサイトには、パスポートの再発行の方法などが書かれている。日本にいる南アフリカ人がインターネットでパスポートの再発行の方法を調べるには、英語が読めなければならないのだ。英語以外の10の公用語でサービスを受けるには、直接大使館に問い合わせるしかない[6]。さすがに、大使館に英語以外の公用語がわかる職員がいないなどということはあるまい。
 また、南アフリカの国歌の詞では5つの言語が使われている。11言語のうち6言語は無視されている。非常になおざりな対応だ[7]
 「少数」でも何でもない南アフリカのバントゥー諸語でさえ、ごらんのありさまだ。所詮建前か!

 それはさておき、ここで、アイヌ語を日本あるいは北海道の象徴的な公用語とする場合について考えてみる。
 いくら建前、象徴、飾りといえども、公用語は公用語。アイヌ語版の憲法を作るなどの最低限の公的な使用は欠かせまい。その場合、やはり標準語の制定が必要となる。
 アイヌ語がただの象徴なら、標準語などいらないという考え方もできる。例えば次のようなものだ。
 標準語や共通語というのは、異なる方言の話者同士の意思疎通のためのもの。はなはだ実用的なものなのだ。だが、アイヌ語の実用性はすでに失われてしまっている。相手の使うアイヌ語が理解できなければ困るという状況はほとんどないのだ。ならば、公文書がどこの方言で書かれていたって構わない。正確な内容を知りたければ日本語版を見ればよいのだ。
 それどころか、「正しいアイヌ語」で書かれている必要すらないと考えることもできる。それっぽささえ演出できればよいのだ。極端な話、復活の呪文やハナモゲラでも用は足りる[8]。日本語が常用されていない国では、「なとのリトトスペロ」[9]や「ヌテツトハキタ」[10]という謎の文字列が記されたシャツでも、充分に日本的アトモスフィアを醸し出せる。それと一緒だ。
 だが、私はこのような考えには賛成しない。公文書のアイヌ語がでたらめでも誰も困らないと思われるかもしれないが、私が困る、いや、不愉快なのだ。
 私には少々ながらアイヌ語の知識がある。知識がある人、好きな人にとって、インチキなものはただただ不快なのだ。好意的に受け取っても、つまらない冗談でしかない[11] [12]。いくら非実用的な言語のものであっても、あらたまった文書は一貫した正しい文法、語彙etc.を用い、きちんとした規範に則って作らねばならない。


[1] 「CDエクスプレス アイヌ語」 中川裕、中本ムツ子 白水社
[2] 「アイヌ語のむこうに広がる世界」 中川裕 編集グループSURE
[3] 「アコロ イタク」 社団法人北海道ウタリ協会
[4] ラジオ講座テキスト
[5] 「ニューエクスプレス・スペシャル 日本語の隣人たちII」 中川裕:監修 小野智香子:編 白水社
[6] 駐日大使館のウェブサイトの言語
[7] 南アフリカの国歌
[8] この主張は、アイヌ語に限らず、例えば英語を公用語とする場合にも適用できる。
[9] 「VOW全書③」 宝島社文庫
[10] 「その他の外国語」 黒田龍之助 現代書館
[11] 英語の知識のある人にとっても、インチキ英語は不快あるいはつまらない冗談である。例えば私は「ポエマー」や「メンズ」(「男」の意味)などの言葉が嫌いだ。
[12] これはまた、困るのはマニアだけということでもある。