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アイヌ語

日本語話者のアイヌ語発音

 「CDエクスプレスアイヌ語」や「ニューエクスプレスアイヌ語」などの附属CDを聞くと、CDに吹きこまれている音声は必ずしも解説通りのものではないことに気づく。もちろん、理論と現実の齟齬というのはアイヌ語に限った話ではない。だが、アイヌ語でこの齟齬が生じることには、ある特徴的な理由がある。

 それは、吹きこみ者が日本語話者であるということだ。

 アイヌ語の母語話者は最早ほとんどいない。エスノローグでは、2007年の資料に基づきアイヌ語の話者数を10人としているのだが、そのうち何人が母語話者なのかは書いていない。
 学習書の附属CDの吹きこみ者の場合、「ニューエクスプレスアイヌ語」の関根一家はもちろん、「CDエクスプレスアイヌ語」や「カムイユカラでアイヌ語を学ぶ」の中本ムツ子(1928-2011)であってさえ、その母語は日本語であった。そのため、そのアイヌ語の発音には日本語の影響が窺えた。

 以下、日本語話者のアイヌ語発音の特徴について述べる。

  • "u"が非円唇母音になる。
 本来、アイヌ語の"u"は円唇母音である。
  • 母音の無声化・脱落が目立つ。
 例えば、ku=kiの"u"やci=kiの1つ目の"i"などは、しばしば無声化する。
  • 語尾の"n"が日本語の「ン」の音になる。
 本来のアイヌ語では、語頭・語中・語尾問わず、"n"は[n]と発音される。

 いずれも、日本語の影響が現れている好例だ。一方、樺太アイヌ語の母語話者であった藤山ハル(1900-1974)の発音は、"u"が円唇母音、母音の無声化が目立たないなど、まさにお手本になるものであった*

 とはいえ、現在のアイヌ語話者・学習者のほとんどが日本語話者なのだ。こうやっていちいちあげつらうのも、実際愚かしい。


* 「樺太アイヌ語例文集(1)」 村崎恭子 北海道大学アイヌ・先住民研究センター

「アコロ イタク」式表記とヘボン式表記

 1月6日の記事にも書いたように、「アイヌ神謡集」で使われたローマ字はヘボン式ベースのものだった。知里幸恵だけでなく、金田一京助や久保寺逸彦がアイヌ語の表記に用いたのもヘボン式ベースのローマ字だった[1]。ジョン=バチラーの「アイヌ・英・和辞典」でも、ヘボン式ベースのローマ字が用いられている[2]
 一方、現在主流となっているのは、片仮名とローマ字を併記する表記法だ。そして、ローマ字部分では、ヘボン式とは異なる綴り方が採用されている。

 さて、昔から使われていたヘボン式と現在主流の「アコロ イタク」式、2つの方式の差異とは、一体どのようなものなのだろうか。

 最大の違いは、ヘボン式でch, shと2文字で綴っていた音が、「アコロ イタク」式ではc, sと1文字で綴られるようになったという点だ。
 また、古いヘボン式ベースの綴り方では、/aj/や/aw/を二重母音と見なして"ai", "au"のように綴っていた。だが、「アコロ イタク」式ではそれぞれ"ay", "aw"のように綴る。このような音節はアイヌ語では閉音節扱いだから、「アコロ イタク」式の方が適切である。


[1] 「アイヌ語をフィールドワークする」 中川裕 大修館書店
[2] 「アイヌ・英・和辞典」 ジョン・バチラー 岩波書店

アイヌ語の表記と発音

 アイヌ語には文字がないとよく言われるが、それは正しくない。正確を期するなら、かつては文字表記の習慣がなかったと言わなければならない。1923年には、アイヌ語の母語話者である知里幸恵がヘボン式ベースのローマ字で「アイヌ神謡集」を書いているし、その後も知里真志保、山本多助など、大勢の人が仮名やローマ字を用いた表記法を考案してきた[1] [2] [3]。このように、アイヌ語には90年以上の文字表記の歴史があるのである。
 現在主流となっているのは、仮名とローマ字を併記する方式である。これは、1994年に北海道ウタリ協会(現アイヌ協会)が編んだ学習書「アコロ イタク」で用いられた表記法だ[3] [4]

 ここで、アイヌ語の具体的な表記と発音について簡単に説明してみたい。表記法は、「アコロ イタク」式のローマ字を用いる。

 アイヌ語には、5つの母音(a, i, u, e, o)と12の子音(k, s, t, c, n, h, p, m, y, r, w, ')が存在する。
 母音のうち、a, i, e, oの4つは日本語の「ア」、「イ」、「エ」、「オ」とほぼ同じ。一方、uは円唇母音[u](口を丸めた「ウ」の音)である。
 k, t, c, n, h, p, m, y, r, wは、それぞれ日本語の「カ」、「タ」、「チャ」、「ナ」、「ハ」、「パ」、「マ」、「ヤ」、「ラ」、「ワ」の子音とほぼ同じ。
 sは、音節末とiの前では[ʃ]、それ以外では[s]となる。
 「'」は喉頭破裂音であり、語中で子音と後続する母音が区切って発音される場合のみに表記される[5]

 アイヌ語の音節は、「(子音)+母音+(子音)」という構造で成り立っている。服部四郎、村崎恭子などは、母音で始まる音節を認めず、母音の前に「'」が存在するという立場にある[6] [7]。一方、中川裕などは母音始まりの音節を認めている[8]
 また、音節末には-k, -s, -t, -n, -p, -m, -y, -r, -wの9つの音素が立つ。

 さて、ここまでアイヌ語の表記と発音について述べてきたが、これは北海道方言のものである。同じアイヌ語でも、北海道と樺太では発音に若干の違いがある。例えば、樺太方言には、北海道方言にない母音の長短の区別が存在する。また、樺太方言の音節末子音は-s, -n, -h, -m, -y, -wの6種類と、北海道方言より少ない[7]

 以上の内容は辞書や学習書にも記されているものである。詳しく知りたい方は、適当な本を参照していただきたい。また、アイヌ文化振興・研究推進機構のサイトでダウンロードできるラジオ講座のテキストにも書かれている。こちらは無料だ。


[1] 「アイヌ神謡集」 編訳:知里幸惠 岩波文庫
[2] 「アイヌ語をフィールドワークする」 中川裕 大修館書店
[3] [少しくわしく] アイヌ語の文字と表記
[4] 「アコロ イタク」 社団法人北海道ウタリ協会
[5] 例:hioy'oy(ありがとう)。「ヒオヨイ」ではなく、「ヒオイオイ」と発音する。
[6] 「アイヌ語方言辞典」 編:服部四郎 岩波書店
[7] 「樺太アイヌ語入門会話」 村崎恭子 緑鯨社
[8] 「アイヌ語千歳方言辞典」 中川裕 草風館

ニューエクスプレス アイヌ語

 ニューエクスプレス アイヌ語 《CD付》

 とうとう今月、白水社から「ニューエクスプレス アイヌ語」が発売される。内容は完全リニューアル。しかも、旧バージョンの千歳方言ではなく、沙流方言を取り扱っている。旧版を持っている人でも買う価値がある本だ。

 アイヌ語の学習環境は、決して貧弱なものではない。それでも、アイヌ語の新しい教材が出るというのはそうしばしばあることではない。実にめでたい。

アイヌ語はどんな言語か

 アクセス解析を見てみると、「アイヌ語+○○」という検索語で来る人が多いことがわかる。

 だが、このブログにはアイヌ語の現状や背景についての記述はあったものの、言語そのものについてはろくに記述はなかった。そんなブログが検索結果上位に来るというのも情けないが、それはさておき、このエントリーではアイヌ語という言語そのものについて書いてみたい。

 さて、そもそもアイヌ語はどんな言語なのか。
 一言で説明すると、日本語とは全く異なる言語である。北海道弁の一種などではない。
 母音がアイウエオの5つだったり、語順がSOVだったりという些細な共通点だけを見て、日本語に似ていると早とちりする方がいらっしゃるかもしれないが、どちらも世界でははなはだありふれたものであって、日本語とアイヌ語ばかりに共通するものではない。

 アイヌ語の学習を始めて、最初に感じる日本語との隔たりといえば、やはり文法だろう。例えば、学習を始めたその日から、人称接辞という日本語にも英語にもない概念と向き合うこととなるのだ。実際、「エクスプレス」でも、第1課から早速ku=とe=という接辞が登場する。
 人称接辞とは、動詞の前後につけて主語や目的語を示すものである。動詞の人称変化という点だけ見れば、例えば欧州諸言語などにも同じようなものがみられるが、アイヌ語の人称接辞には、主語だけでなく目的語をも示す、自動詞と他動詞とでつく接辞が異なるという特徴がある。さらに、人称接辞には、名詞の前において所有表現を作るという機能もある。以下、例を示す。

 wakka ku=ku. 私は水を飲む。
 wakka ci=ku. 私たち(聞き手を含まない)は水を飲む。
 ku=ma. 私は泳ぐ。
 ma=as. 私たち(聞き手を含まない)は泳ぐ。
 tek 手
 ku=teke(he) 私の手

 wakka 水
 ku 飲む(他動詞)
 ma 泳ぐ(自動詞)
 tek 手

 以上の例を見ていただければわかるように、一人称単数を表す人称接辞は自動詞でも他動詞でもku=だが、一人称複数を表す人称接辞は、自動詞では=as、他動詞ではci=となる。また、tekは、所有表現においては所属形teke(he)となる。

 以上、アイヌ語の人称接辞について簡単に触れてみたが、詳しい文法についてもっと知りたい方は、5月19日の記事でお薦めした本などを見ていただきたい。

 さて、実際に行われはしなかったものの、北海道の小学校で、総合的な学習の時間にアイヌ文化体験のカリキュラムを設け、その中で簡単なアイヌ語を教えようというアイディアがあったらしい*。日本語の方言学習と絡めて……ということだが、そもそもアイヌ語は日本語と全く違う言語なのだから、地元の方言を聞く感覚で触れるというのは大分無理がある。


* 第4学年アイヌ文化学習案<総合的な学習>
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