学問がすべて

つまらないは正義

横書き漫画


 屋名池誠「横書き登場」(岩波文庫)には、「文学・マンガの現在と将来」という節がある。そこでは、横書きの小説や短歌、俳句が複数紹介されているのだが、節タイトルにもある漫画についてはたった2行割いているのみである。既存の横書き漫画については言及すらしない。あたかも存在しないかのような扱いだ。

 ツイッターでは、明治大学准教授の藤本由香里氏と編集家の竹熊健太郎氏が、海外展開のために横書きの漫画を作ることについて議論していた。だが、このまとめを見る限り、藤本氏は国産横書き漫画に言及していない。辛うじて竹熊氏は別の所で既存の横書き漫画に言及しているが、その他の発言を見るに、現状では横書き漫画は例外的な存在ととらえているようだ。
 また、トゥギャッターのコメント欄を見ると、「横書き漫画は描きにくいだけでなく、読みにくいので、日本では商売にならない。」などという意見が目立つ。

 このように、横書き漫画は取るに足らない存在という前提で論じられることが多い。だが、その前提は正しくない。決して主流ではないが、横書き漫画はすでに無視できない地位を確立しているのである。続きを読む

日本語話者のアイヌ語発音

 「CDエクスプレスアイヌ語」や「ニューエクスプレスアイヌ語」などの附属CDを聞くと、CDに吹きこまれている音声は必ずしも解説通りのものではないことに気づく。もちろん、理論と現実の齟齬というのはアイヌ語に限った話ではない。だが、アイヌ語でこの齟齬が生じることには、ある特徴的な理由がある。

 それは、吹きこみ者が日本語話者であるということだ。

 アイヌ語の母語話者は最早ほとんどいない。エスノローグでは、2007年の資料に基づきアイヌ語の話者数を10人としているのだが、そのうち何人が母語話者なのかは書いていない。
 学習書の附属CDの吹きこみ者の場合、「ニューエクスプレスアイヌ語」の関根一家はもちろん、「CDエクスプレスアイヌ語」や「カムイユカラでアイヌ語を学ぶ」の中本ムツ子(1928-2011)であってさえ、その母語は日本語であった。そのため、そのアイヌ語の発音には日本語の影響が窺えた。

 以下、日本語話者のアイヌ語発音の特徴について述べる。

  • "u"が非円唇母音になる。
 本来、アイヌ語の"u"は円唇母音である。
  • 母音の無声化・脱落が目立つ。
 例えば、ku=kiの"u"やci=kiの1つ目の"i"などは、しばしば無声化する。
  • 語尾の"n"が日本語の「ン」の音になる。
 本来のアイヌ語では、語頭・語中・語尾問わず、"n"は[n]と発音される。

 いずれも、日本語の影響が現れている好例だ。一方、樺太アイヌ語の母語話者であった藤山ハル(1900-1974)の発音は、"u"が円唇母音、母音の無声化が目立たないなど、まさにお手本になるものであった*

 とはいえ、現在のアイヌ語話者・学習者のほとんどが日本語話者なのだ。こうやっていちいちあげつらうのも、実際愚かしい。


* 「樺太アイヌ語例文集(1)」 村崎恭子 北海道大学アイヌ・先住民研究センター

「アコロ イタク」式表記とヘボン式表記

 1月6日の記事にも書いたように、「アイヌ神謡集」で使われたローマ字はヘボン式ベースのものだった。知里幸恵だけでなく、金田一京助や久保寺逸彦がアイヌ語の表記に用いたのもヘボン式ベースのローマ字だった[1]。ジョン=バチラーの「アイヌ・英・和辞典」でも、ヘボン式ベースのローマ字が用いられている[2]
 一方、現在主流となっているのは、片仮名とローマ字を併記する表記法だ。そして、ローマ字部分では、ヘボン式とは異なる綴り方が採用されている。

 さて、昔から使われていたヘボン式と現在主流の「アコロ イタク」式、2つの方式の差異とは、一体どのようなものなのだろうか。

 最大の違いは、ヘボン式でch, shと2文字で綴っていた音が、「アコロ イタク」式ではc, sと1文字で綴られるようになったという点だ。
 また、古いヘボン式ベースの綴り方では、/aj/や/aw/を二重母音と見なして"ai", "au"のように綴っていた。だが、「アコロ イタク」式ではそれぞれ"ay", "aw"のように綴る。このような音節はアイヌ語では閉音節扱いだから、「アコロ イタク」式の方が適切である。


[1] 「アイヌ語をフィールドワークする」 中川裕 大修館書店
[2] 「アイヌ・英・和辞典」 ジョン・バチラー 岩波書店

アイヌ語の表記と発音

 アイヌ語には文字がないとよく言われるが、それは正しくない。正確を期するなら、かつては文字表記の習慣がなかったと言わなければならない。1923年には、アイヌ語の母語話者である知里幸恵がヘボン式ベースのローマ字で「アイヌ神謡集」を書いているし、その後も知里真志保、山本多助など、大勢の人が仮名やローマ字を用いた表記法を考案してきた[1] [2] [3]。このように、アイヌ語には90年以上の文字表記の歴史があるのである。
 現在主流となっているのは、仮名とローマ字を併記する方式である。これは、1994年に北海道ウタリ協会(現アイヌ協会)が編んだ学習書「アコロ イタク」で用いられた表記法だ[3] [4]

 ここで、アイヌ語の具体的な表記と発音について簡単に説明してみたい。表記法は、「アコロ イタク」式のローマ字を用いる。

 アイヌ語には、5つの母音(a, i, u, e, o)と12の子音(k, s, t, c, n, h, p, m, y, r, w, ')が存在する。
 母音のうち、a, i, e, oの4つは日本語の「ア」、「イ」、「エ」、「オ」とほぼ同じ。一方、uは円唇母音[u](口を丸めた「ウ」の音)である。
 k, t, c, n, h, p, m, y, r, wは、それぞれ日本語の「カ」、「タ」、「チャ」、「ナ」、「ハ」、「パ」、「マ」、「ヤ」、「ラ」、「ワ」の子音とほぼ同じ。
 sは、音節末とiの前では[ʃ]、それ以外では[s]となる。
 「'」は喉頭破裂音であり、語中で子音と後続する母音が区切って発音される場合のみに表記される[5]

 アイヌ語の音節は、「(子音)+母音+(子音)」という構造で成り立っている。服部四郎、村崎恭子などは、母音で始まる音節を認めず、母音の前に「'」が存在するという立場にある[6] [7]。一方、中川裕などは母音始まりの音節を認めている[8]
 また、音節末には-k, -s, -t, -n, -p, -m, -y, -r, -wの9つの音素が立つ。

 さて、ここまでアイヌ語の表記と発音について述べてきたが、これは北海道方言のものである。同じアイヌ語でも、北海道と樺太では発音に若干の違いがある。例えば、樺太方言には、北海道方言にない母音の長短の区別が存在する。また、樺太方言の音節末子音は-s, -n, -h, -m, -y, -wの6種類と、北海道方言より少ない[7]

 以上の内容は辞書や学習書にも記されているものである。詳しく知りたい方は、適当な本を参照していただきたい。また、アイヌ文化振興・研究推進機構のサイトでダウンロードできるラジオ講座のテキストにも書かれている。こちらは無料だ。


[1] 「アイヌ神謡集」 編訳:知里幸惠 岩波文庫
[2] 「アイヌ語をフィールドワークする」 中川裕 大修館書店
[3] [少しくわしく] アイヌ語の文字と表記
[4] 「アコロ イタク」 社団法人北海道ウタリ協会
[5] 例:hioy'oy(ありがとう)。「ヒオヨイ」ではなく、「ヒオイオイ」と発音する。
[6] 「アイヌ語方言辞典」 編:服部四郎 岩波書店
[7] 「樺太アイヌ語入門会話」 村崎恭子 緑鯨社
[8] 「アイヌ語千歳方言辞典」 中川裕 草風館

同人誌を販売/購入するという表現

 コミックマーケットなどの同人誌即売会の参加者の間では、「頒布」という語が頻繁に使われる。イベントで同人誌をさばくことを、そう表現することが多いからだ。例えば、同人誌即売会のチラシなどにおいては、「頒布」という語の出現数は、「販売」や「発行」などのそれを上回っている[1] [2]

 「頒布」という表現を好むイベント参加者の中には、「同人誌は、頒布するものであって、販売するものではない。」と主張する人すらいる[3]
 販売は頒布の一種だから、同人誌を有償で引き渡すことを「同人誌を頒布する」と表現しても間違いではない。だが、「販売するものではない。」と言い切ってしまうのは勇み足であり、明らかに間違いである。

 客観的に見れば、同人誌即売会で行われていることが売買、すなわち販売と購入であることに議論の余地はない。販売ではないと主張するならば、イベント参加者の意識の中に根拠を求めなければならない。つまり、イベント参加者の間では同人誌は販売するものではないという意識が一般的であることを示す必要があるということだ。

 販売とは、売ることである。対義語は「購入」、「買う」である。同人誌は販売するものではないという意識がイベント参加者の間で一般的なものならば、「同人誌を売る/買う」やそれに類する表現もはばかられるはずである。
 だが、同人サークルのサイトの日記などを見てみると、イベントにおいて同人誌などを有償で引き渡すことを「売る」・「販売」、有償で受け取ることを「買う」・「購入」と表現している例をいくつも見つけることができるのだ。軽く探しただけでも、以下のようなものを見つけられる。なお、下線は引用者によるものだ。

  • 既刊販売は11時ごろからに。
  • うちのサークルにしては異例なほど多くの女性の方々に本をお買い上げ頂きました。

酔月工房 2013年8月18日

ただし、11月以降に売っていたはたて本「スランプです」を買ったよーという方は100円引きします。

すわこのほとり 2012年12月29日

12月31日 冬コミ西地区りー15aにて「お風呂と牛乳と約束」を
購入してくださった方に先着
にて上のシャンテイラストカードを
さしあげます!

できました~

 また、手元にあった同人誌20冊のまえがき・あとがきを確認してみた所、「お買い上げありがとうございます。」のように、「買う」・「購入」などの語が使われているものが5冊あった。無視できる少なさではない。ちなみに、すべて別のサークルの本である。

 さて、2008年5月に同人誌は「販売」するものではなく「頒布」するものという記事を書いたフラン氏は、同人誌の有償でのやり取りをどう表現しているのだろうか。本家サイトの記事を見てみよう。

買えなかった同人誌とかもちょっとあったのでした。
まぁ、それでも欲しいのは買えたけど!

コミックマーケット84 2日目最終日!

手に取ることが出来なかった本たちは取りあえず通販でお願いすることにします…

コミックマーケット84 2日目行ってきたよ!

 「買う」と言っている。「通販」[4]という言葉も使っている。どちらも、同人誌は販売するものと思っていなければ使えない表現だ。
 5年も経って気が変わったのかと思いきや、

という訳でこの1ページの為だけに買いました

C74同人誌感想(2日目分)

と、2008年8月、わずか3か月後の時点ですでに「同人誌を買う」と言っている。

 用例からは、「同人誌を販売する」という表現を躍起になって否定する理由は見当たらない。
 記憶をたどってみても、「売る/買う」という表現を忌み嫌う主張を見聞きしたことはない。ネット上やイベント会場で「売る/買う」と言っても、別段咎められたりはしない。
 そもそも、コミックマーケット準備会自身が「販売」という言葉を使っているのだ[2]
 

 結局、少なからぬイベント参加者が、同人誌は販売するものと考えているのである。となれば、最早「販売するものではない。」と主張する根拠は存在しない。


[1] 巻末資料「即売会チラシの単語表」
[2] 2010年夏コミ(コミックマーケット78)論文:「同人文化における『頒布』の意味解釈」の全文
[3] 同人誌は「販売」するものではなく「頒布」するもの
[4] 通信販売の略
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